「フェティシズム」と「性的フェティシズム」について、数回に渡って論じてきました。最後となる今回は、「性的フェティシズム」の具体例について、作品や事例を参照しながら論じていきたいと思います。
取り上げる例の大半はヘテロセクシュアルの男性フェティシストです。従って、彼らが欲する呪物(フェティッシュ)には、主として女性を象徴する様々な表象(特に身体部位と衣服)や、女性の痕跡が刻まれた物体が選ばれています。
フェティッシュなアイテムたち
女性の足、衣服、下着、髪などはポピュラーなフェティッシュであり、「○○フェチ」という自己紹介に使いやすいものです。「C社の一眼レフのシャッター音やS社のレンズの駆動音があまりにも好きすぎて、ハイレゾ録音でそれらの音を聞くだけで興奮してしまう」といった自己紹介では引かれてしまうかもしれませんが、黒ストッキングやセーラー服、あるいはツインテールやハイヒールフェチであることを自己紹介に付け加えるなら、とりたてて問題はないでしょう。
ジェンダー化されていない無機物への愛着や崇拝は、「フェティシズム」という点では本来意味の近いものですが、今日における「フェティシズム(フェチ)」は「性的フェティシズム」とほぼ同義の意味で使われているので、異性(あるいは同性)に関連付けられたフェティッシュに関する語りは、ヘテロセクシュアル=「正常」と見なされている欲望の表明でもあるため、多くの人に理解や共感を促します。
連載でも繰り返し引用してきたアントニー・ストーは、
「フェティッシュにはとかく女性を象徴しているものが選ばれる。一般に、女性専用の持ち物や女性的性質を表わしているものがフェティッシュとなる。たとえば、ブラジャー、タイトスカート、ハイヒールなど、二次性徴を強調する衣類がフェティッシュとなることが多い。時としてフェティッシュは、女性の女らしさを誇示するための、いわば幟のようなものになってしまう。」(ストー、1985、『性の逸脱』、103頁)
と述べるように、女性用の衣服、装飾などは、フェティッシュとして高い人気を誇りつつ、「女性」のイメージを表象するための媒介物として機能するだけでなく、「女性」が社会的に好ましいジェンダー・イメージを強調するための武器としての側面を持っています。
近年では、日本ローレグ・ライズ協会の活動で注目を集めるローレグ、ローライズのアイテム(ブルマやパンツ)はフェチ的でもありつつ、「女」らしさを強調する好例といえるでしょう。
欲望を喚起する間接対象
石塚正英は「フェティシズム」と「フェチ」の違いについて、
「当世風俗最前線でよく耳にする『フェチ』がある。こちらは、なるほど出自はフェティシズムに見いだされるものの、語に備わる意味はフェティッシュとは異なる。フェティッシュは崇拝や愛情の直接対象であるが、フェチはそれらの間接対象である。」(石塚正英、2001、21頁)
と述べています。石塚が指摘する「フェチの論理」は物品それ自体が崇拝・愛情の対象となる、ド・ブロス由来の構造ですが、今日の「(性的)フェティシズム」では、物品はその所有者あるいは関係者の存在を媒介する役割を担い、物品を愛好することで間接的に他者に対する崇拝や愛情をフェティシストにもたらします。
下着泥棒などは、石塚の指摘する「フェチ」の典型例といえるでしょう。彼らの関心が女性の<下着それ自体>に向かい、単なる下着が呪物的な魅力を放つのであれば、窃盗行為に及ばずとも、ネット通販等で下着を購入すれば欲望を充足することができます。
しかし、彼らが求めるものは<使用された下着>であり、<下着それ自体>ではありません。「女性」が使用・所有している下着が彼らにとってのフェチであり、下着を媒介に所有者の「女性」を間接的に欲望するという構図が、下着泥棒の「フェチ」的な欲望に見出せます。
ブルセラショップなどで販売されている下着や衣類に、女の子の写真(販売される商品の所有者であるか否かは問題にならない)が添付されているのも、欲望を間接的に充足させる一例といえるでしょう。
作品に描かれた間接的な欲望
作品に描かれた2人の性的フェティシスト(フィクションとノンフィクション)を引いて、フェティッシュとなる物品にとっての重要な価値として、持ち主との<関係性>強調されるケースを見てみましょう。
野田知佐がマスカットを口に入れ、2,3回噛んで手のひらに吐き出した。薄緑色の皮が破れ果肉が潰れている。カケガワはそれを素早くピンセットでつまんでプラスチック容器の仕切りの一つに入れた。野田佐和はそれを三度繰り返した。
「名前を教えてよ、いや、本名じゃなくてもいいんだ、適当な名前を、自分で考えてそれを言ってよ」
(中略)
「野田知佐が渋谷にある女子校の名前を言った。カケガワは名前を書き込んだシールをそれぞれの仕切りの蓋に貼った後、野田知佐に13万円を払った。」(村上龍、1996、『ラブ&ポップ』、幻冬舎)
最初の例は援助交際・ブルセラブームをテーマにした村上龍『ラブ&ポップ トパーズ2』です。注目したいのはマスカットが野田佐和の口で噛まれることによって、単なるマスカットからフェティッシュへと変貌し、万人に共通のフェティッシュである金銭と交換されるだけでなく、所有者の名前を添えてコレクションされるという点です。
次に紹介する天野哲夫は、自身のマゾヒズムを充足させる数多の実践を著作で記しており、カケガワと野田佐和の間で行われたフェティッシュの交換を、よりわかりやすく言い換えています。
「ある女学生から、私は牛乳瓶に満たした彼女の尿を買った。彼女は瓶を手渡すとき、瓶の生温かさに気づき、温かいことに羞恥し、瓶を水で冷やし、冷たくしてから手渡してくれた。私が瓶に口づけし、一息に飲むところをじっと見ていた。つまり、彼女と私とには関係が生じた」(天野哲夫、1981、「フェティシズムの形而上・下学」『女神のストッキング』、工作舎)
女性崇拝と対象神格化を旨とする天野にとって、「女性」はおしなべて神的存在であり、その所有物から排泄物に至るまで、あらゆるものが彼にとってのフェティッシュになります。
また、天野のマゾヒスト嗜好のひとつに「下降願望(スクビズム)」があります。「下降願望」は男である自身を卑しい存在として、陵辱的に扱われることに悦びを見出すというもので、排泄物を飲み干すという行為それ自体がフェティッシュであると同時に自己陵辱的な行為として、彼の欲望を満足させています。
『ラブ&ポップ』の引用部では、野田佐和の内面は描かれていませんが、名前に対するカケガワの執着は、関係性の構築に対する欲望ともいえるでしょう。
ここまでは、対人関係における性的フェティシズムであり、フェティッシュへの崇拝・愛情は間接的に他者への崇拝・愛情となる例ですが、最後に「逸脱」とカテゴライズされるフェティシズムを紹介しておきたいと思います。
擬人化されるフェティッシュ
頭蓋貫通(トレパネーション)愛好者、四肢切断愛好者(いわゆる切り株フェチ)、窒息愛好者、自己去勢衝動に憑かれた自傷者など、いわゆる「異常」性愛者について、検視報告や医学書に発表された記事などを集めた事例集である、スチューアート・スィージー(編集)の『デス・パフォーマンス――倒錯と死のアモクジャーナル』(リンク:Amazon )(2000、第三書館)には、「フェティシズムが真の逸脱とよびうるものになるのは、フェティッシュがすっかり人間の代わりをはたしている時に限られる。」(ストー、1985、90頁)というストーの指摘を実証するような倒錯的フェティシストの実例が数多く紹介されています。
掃除機で自慰を行っている最中の感電死、ヘッドフォンで馬のいななき声を聞きながらの自慰死、女性の下着を身につけての首吊り自慰中の事故死など、記事1回分を割いて倒錯者の群れを紹介したいのですが、文量の関係もあるので、フェティッシュが媒介する他者との関係性や、ストーが指摘する人間の代替化に関連した例を2つ紹介したいと思います。
まず1例目は、フォルクスワーゲンに引きずられることで快楽を享受していた男の事故死。
「退役軍人、男性40歳、朝鮮戦争で航空機パイロットとして従軍。身体と車の間に巻き付けたチェーンが車の後輪に絡み、リアフェンダーに圧迫される形で窒息死。死因は、エンジンを切ろうと車に近づいた際、バンパーと身体に巻き付いたチェーンを外し忘れたため、緩んだチェーンが後輪に巻き付いてしまった――「ギアをローに入れ、ハンドルを逆時計回りに固定し車を同一中心に旋回させた。男が車の移動に合わせて自らも動いたのか、または地面を引きずられようとしたのかは定かではない」(『デス・パフォーマンス』 48-52頁)。
『デス・パフォーマンス』に収められた事例は、報告書や医学的観点からの分析記事であるため、倒錯者の異常性をスキャンダラスに記すものではなく、実況見分に基づく事実が淡々と綴られるのみですが、それが不気味な状況を煽り立てています。
1例目は分析の手がかりになる要素が極めて少ないため、退役軍人の男が苦痛快楽愛好者であるのか、フォルクスワーゲンに対する何らかの崇拝的愛情に基づく対象神格化と結びつき、自動運転する機械(主人)に引きずられるマゾ的な悦びに浸っていたのか、その真相は定かではありませんが、次に紹介する例と併せて考えてみると、男がフォルクスワーゲンを主人の代替物として眼差していたように思えます。
「42歳、アジア人男性。トラクターの上昇したショベル部分にロープをかけ、首を吊った状態で死亡――「衣類は脱いでおらず、下腹部の露出もなかった。そのほかポルノグラフィー、女物の衣類、行為中の自分を写す鏡も見当たらなかった。」(同前、95頁)。
2例目はトラクターを使った首吊り中の窒息死ですが、まず注目したいのは下腹部の露出、ポルノグラフィー、女物の衣類が現場になかったという記述です。『デス・パフォーマンス』の前半では主に首吊り自慰中の事故死が紹介されますが、ポルノグラフィーや女物の衣類は自殺か否かを判断する重要な要素となります。
男はかねてからの窒息愛好家(勃起を伴う性的興奮を生じさせる)であり、窒息自慰中に意識を失いました。トラクターの排ガスによる一酸化炭素中毒死というのが検分の結果ですが、彼の遺品の中には、女性の名前をが付与されたトラクターに送ったポエムなどが発見され、明確なフェティッシュの人格化が窺えます。
「2年前に自分自身へのクリスマスプレゼントとして、バックホゥトラクターを購入。トラクターを“ストーン”と命名した。溝掘り工事に何度かこのトラクターが使われた。ストーンの写真を同封したクリスマスレターを友人に送っていて、この中でストーンのことに触れている。またトラクターに捧げる長編ポエムもみつかり、『ストーン、一緒に飛んでゆこう、空高く』云々と書いてあった」(同前、96-97頁)
トラクターを使った窒息死は、1例目に劣らず異常な状況ではあれど、トラクターというフェティッシュを通じて(妄想上の)「女性」との関係性に浸るという、これまで論じてきたフェティッシュを媒介とした他者との関係性という構造を比較的忠実になぞっている(『ラブ&ポップ』のカケガワと同様、名前を付与していることも興味深い点です)といえるでしょう。
おわりに
4回に渡って大雑把ではありますが、「フェティシズム」と「性的フェティシズム」について論じてきました。「性的フェティシズム」を取り上げる以上、具体例は「女性」を想起させるフェティッシュと、それを崇拝・愛好するヘテロセクシュアル男性というジェンダー化されたモデルが中心になってしまいました。
けれども今日の「フェチ」は男女双方に広く共通した嗜癖であり、「グッとくる」「胸キュン」する対象は他者に対する間接的な欲望ではなく、自身の欲望を満足させる自己完結的な構造に類するものもあり、無性的なフェティッシュに対する純粋なフェティシズムもあります。
「フェティシズム」/「フェチ」といえば、一般的には「性的フェティシズム」と混同されやすいことは本連載の中でも繰り返し指摘した点ですが、Feti.Tokyoに掲載されている様々な「フェチ」は、「性的フェティシズム」の範疇には収まらない、多彩なものです。
「フェチ」=性的なものという色眼鏡を外し、改めて、めくるめくフェチ世界を冒険してみることで、潜在的な「胸キュン」対象を発見できるかもしれませんよ。
次回からは、(できる限り)1回完結の形式で、作家・作品、フェティッシュなアイテム等々について論じていきたいと思っております。

鈴木真吾
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